謹賀新年。平成28年・2016年。 2016/01/05
新しい年が明けまして おめでとうございます。

今年も 元気に 務めてまいります。

よろしくお願いします。
平成27年 第4回定例会 質問。20151209。 2015/12/26
定例会の「一般質問」です。12月9日、午前10時から、登壇しました。
以下、概略を報告します。

理事者からの「答弁」は、渦潮の世界遺産登録については、まず「日本遺産登録」へ、定住人口対策については、「鳴門市人口ビジョン」にそって事業を展開して進めて参ります、とのことでありました。

1つ、世界遺産登録について。
 鳴門海峡の渦潮と、四国八十八箇所霊場と遍路道の世界遺産登録について。
2つに、なるとの未来づくりについて。
 定住人口対策について、県外などからの誘客促進策について。

●世界遺産登録について、であります。これで3回目の質問となります。もう一度、質問します。
なぜ、渦潮と遍路道を、今、世界遺産登録しよう、なのかであります。

 昨日、12月8日は、今から74年前、1941年、昭和16年、太平洋戦争が始まった日であります。日清・日露の戦争、満州事変などを経て、ついに日本はアメリカと、戦争状態に入りました。以後、激しい沖縄戦や広島・長崎への「原爆投下」などあり、1945年、昭和20年8年15日、戦争は終結しました。70年前のことであります。
 その後、日本は、経済復興を果たし、現在は近隣諸国との外交上の摩擦や沖縄の米軍基地の課題などを残しつつも、通常の日常生活が送れる平和な国となっています。
 しかし、世界の各地では、いまだ平和に程遠い地域や国々があります。
 11月20日に、国連安全保障理事会で、フランスで起きたパリ同時多発テロを非難して、あらゆる手段で戦う決意」を表明する決議案を全会一致で採択しました。
 信じがたいことですが、いつまで、このような悲惨なテロや殺りくが繰り返されるのでしょうか。何と痛ましいことでしょうか。

 このような中、我が鳴門市は、戦後、「平和と友好の都市・鳴門」として、「観光都市・鳴門」として、歩んできました。
 昭和30年3月25日には、市議会議員の発議によって「鳴門市戦没者追悼の日を制定する条例」が制定されました。(条例の紹介)
 また、現在、市役所の2階、市民ギャラリーにて板東俘虜収容所の写真が展示されていますが、ドイツ兵と板東住民との暖かい交流の様子が伝わってきます。現在も続いているドイツ・リューネブルグ市との友好交流、毎年の交響曲「第九」演奏会、そしてまた、ベートーベン「第九」のブランド化にむけたプロジェクト、民間では、今年の夏、在バングラデシュ日本国大使館、阿波踊り実行委員会が、バングラデシュ舞踊団を阿波踊りに招待して、文化交流を深めましたが、その際に、バングラデシュに生産工場を持つ鳴門の会社が発起人となり、平和と友好を願う橋渡し役となったのであります。
 このような「官と民」、行政と民間の動きを見て参りますと、日本全国の自治体の中で、鳴門市こそが友好・平和都市として、一番の自治体であると思います。
 戦前は、鳴門海峡は「軍事上、重要な拠点」として、写真撮影は禁止されていました。今では、鳴門の、徳島・四国の有数の観光地として、全国から注目されていて、多くの方が訪れて、豪快な渦潮を写真に収めています。
 四国八十八箇所霊場と遍路道には、毎年、全国から、世界各国から、多くの巡礼者が訪れています。平和と安らぎの祈りをささげつつ、四国を回っています。
 このように、鳴門海峡の渦潮と、四国八十八箇所霊場と遍路道は、世界の平和と人々の友好のシンボルなのであります。

 平成27年6月16日、鳴門市議会では「世界遺産登録をめざす鳴門市議員連盟」を設立しました。その時、観光振興課からいただいた資料に、世界遺産化とは「文化及び自然の遺産で、自国の領域内に存在するものを認定し、保護し、整備活用し、及び、きたるべき世代へ伝承することを確保することが、本来自国に課せられた義務であることを認識する」とあります。

 鳴門市にとって、鳴門海峡の渦潮と、四国八十八箇所霊場と遍路道の世界遺産化は、次なる世代への「義務」なのであります。

もう一度、確認しますが、鳴門海峡の渦潮と、四国八十八箇所霊場と遍路道の世界遺産登録について、鳴門市として、その目的をどのように認識しているのか、登録に向けて、現在の進捗状況はどのようになっているのか、これからの方向性は、どうなのか、質問します。

●次に、なると未来づくりについて、鳴門市への定住人口増加策について、そして、県外などからの誘客促進策、すなわち流入人口の増加策について、質問します。

 全国の地方自治体、都道府県・市町村は、憲法や地方自治法などの法律に従って、全国共通の行政業務を行う義務・使命があります。

 例えば、第25条は『国民の生存権、国の社会保障的義務』を明記しています。すなわち「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」「2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

 また、第26条は『教育を受ける権利、義務教育』として、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」「2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

 戦後、制定された日本国憲法では、以上のように、国民の生存権、すなわち「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障しています。また、教育を受ける権利と、保護者に対して、子どもたちに教育を受けさせる義務を課しています。
 そしてまた、第27条 「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」とあります。
 どこの自治体に住もうとも、東京都に住んでも、大阪市に住んでも、鳴門市でも、藍住町や北島町でも、私たちの権利とするところ、義務として勤めなければならないこと、すべてが一緒であります。

 しかし、その自治体の、市町村の、地形によって、川があるか無いか、海岸線があるかないか、また、人口構成、高齢者が多いか少ないか、気候、寒いか暑いか、などで行政業務の違いが出てきます。太平洋側の海岸に面している自治体では、津波被害を警戒し、防ぐための対策が必要であるし、海岸は無いけれど、山が多い自治体では、大雨に対する土砂災害への対策が必要になってきます。
 これらの対策は、すべて計画書が作成され、計画に従って対策事業に予算がついて、業務が行われていきます。
 しかしながら、昨年度、2014年、平成26年12月27日、国が「地方創生」と題して、大変なことを発表したのであります。
 すなわち、このままだと、日本全体で人口が減ってしまって、それも地方で人口減少して、その結果、消滅してしまう自治体がある。長期ビジョン、長期の計画を策定して、まち・ひと・しごとを創生、すなわち新しく生まれ変わる自治体を作り出しましょう、と言ったのであります。
 戦後生まれの、いわゆる団塊の世代が退職し始める2005年、平成17年あたりから、日本の人口問題は、「超・少子・高齢化社会の到来」としてクローズアップされていました。
 人口が減少して、特に税金を納める労働者人口が激減して、高齢者への介護・医療費が急増して、いずれ、自治体の財政が破綻するであろうことは、予想されていました。
 いざ、そのような現実が見えてきますと、例えば、これまで行われてきた「少子化対策事業」などは、当時から指摘されていたように、「対策事業」として成功していなかったことが解ります。
 1人よりも2人、2人よりも3人、というように、子どもを生み、育てやすい環境づくりの対策事業であったはずなのに、現在生まれている子どもだけを手厚く福祉保障する事業が進められてきました。
 男女共同参画事業を進めたり、育児休業法を改正したりして、子育て中の女性の仕事支援、働きながら2人目、3人目の子どもを出産して、不安なく育てられる対策事業などを進めていますが、人口減少に歯止めがかかりません。

 ここに至って、国が打ち出した、この「地方創生」というプランは、「憲法で保障」している、どの自治体で住んでも、同等の生活保障をしますという、国の義務を放棄したのではないのか、と思われるような「地方自治体同士の生存競争を煽り立てるような政策」であり、国が、憲法の第25条 『国民の生存権、国の社会保障的義務』を放棄して、最小の地方自治体である、市町村に「すべての負担」を負わせようとしているかのようであります。
 当初に申し上げましたように、どの市町村も、地形や風土によって、事業予算の配分先が違っています。尚かつ、当初から自主財源が少ない中で、若い人に魅力ある仕事を作り出しなさい、そして、雇用の場を広げ、雇用の質を改善しなさい、と言ってきているのであります。
 このようなことが、できるのでしょうか。

 鳴門市から転出する方々へのアンケート結果では、
鳴門市から県外への転出者は、「仕事」に関することで移動することが多い。
鳴門市から県内への転出者は、「仕事」に関することが最も多いが、よりよい環境を求めての移動も多い。
20代から30代、40代前半くらいまでに「仕事」「子育て」をする場を見つけて、そこに定住することが多い。

 答えは、見えています。鳴門市の人口増加策は、出生数を増加させて、市外からの転入者をどんどん増やすような施策を推進していくことである。答えは簡単なことであります。
 そこで、質問でありますが、鳴門市は、どのようにしていくのでしょうか。
三世代クリスマスの集い。20151212。 2015/12/13
12月12日、「子どもの街をつくる会」が主催する「クリスマスの集い」を開催しました。
林崎小学校の講堂に、大人が74人、子どもが124人、合計で198人。

子どもと大人が集い、年末の行事として定着しているクリスマスの集いを行い、地域の人々との交流して、人間関係を深めることを目的としています。
平成3年に始まり、今年で、25回目になります。
当時、小学生で参加した子どもたちが「保護者」として参加している方もいます。

3部構成で、1部と3部は「キャンドルの集い」、2部は、みんなでゲームをして楽しみます。ジャンケン・ゲームやロンドン橋ゲーム。大きな歓声と笑顔があふれ、みんなの気持ちが一つになります。

子どもたちの笑顔があってこそ、地域は「豊か」になります。
この集いは、「防犯」と「親睦」に、大きく貢献している活動である、と思います。
満月と城。20151127。 2015/11/28
妙見山にある「旧鳥居博士記念博物館」と満月です。

博士の膨大な「蒐集物」は、現在は徳島県立博物館にて保管されています。
ここ旧記念館は、改修耐震工事が進められて、完了すれば鳴門市が「引き取り」、防災用倉庫、会合室、展望台などに利用される予定です。

なぜに記念博物館が「城型」なのか、という事ですが…。

徳島(阿波)には、勝瑞城、徳島城、川島城など、多くの城がありました。
京都(当時の中央政府)と、地理的にも人的にも深い関係があって、物資流通についても、統治(覇権争い)的についても、古くから「歴史に刻む」地域でありました。
その中で、海上交通で、京阪神に一番近い鳴門・撫養は、まさしく「人と物」が集まり行きかう要衝の地でありました。
この地の「岡崎城」は、北の見張り、守りの最先端に位置していました。

それを模して造られたのが、この記念博物館です。
毎晩ライトアップされ、今では、鳴門市のシンボルとして、親しまれています。
春には桜、そして、秋の名月が似合う城です。
世界遺産。四国霊場と遍路道。20151127。 2015/11/28
今、四国霊場札所には、世界遺産登録への旗揚げメッセージの「のぼり」が立っています。

鳴門市議会では、平成27年6月16日、「世界遺産登録をめざす鳴門市議員連盟」を立ち上げました。
「鳴門海峡の渦潮」と「四国八十八か所霊場と遍路道」の世界遺産登録の実現をめざす活動を行うためです。

その後、全体的に全員で、これといった具体的な活動をしていませんが、議員個々に霊場巡りを始めた方や、お遍路や仏教についての話題が増えてきています。

この様な「世界遺産登録」に向けてのケースは、何といっても「官(行政)」よりも「民(官以外の団体や個人)」の『意欲』が大事であると、登録の活動に携わった先駆者たちから、指摘されています。

この6月に立ち上がってから何も活動していない「連盟」ですが、年明けには、呼びかけて、札所巡りなどに向かいたいと思っています。
阿波六地蔵霊場・地蔵寺。宝寿水。20151124。 2015/11/25
境内で湧き出る、小松島の名水「宝寿水」です。

蜂須賀の殿様がこちらに来られた時には、この水でお茶をお出ししたとのこと。
近在の皆さんでしょうか、多くの方々が来て、大きなペットボトルに入れていました。

この名水、「一杯飲めば一年長生きする、二杯飲めば二年長生きする」そうです。しからば、「三杯飲めば……」、「死ぬまで長生きする」とのこと、ありがたい講話でした。

いただきましたが、まことに美味しい、間違いなく美味いお水でした。
次回には必ずペットボトル持参します。
阿波六地蔵霊場・地蔵寺。多宝塔。20151124。 2015/11/25
多宝塔です。
四国でしたか、徳島県の中でしたか、聞きそびれたのですが、この多宝塔があるお寺は、五ヶ寺だそうです。
四国霊場の霊山寺、熊谷寺、それと…、どのお寺も、縁起の深いお寺です。

この塔の中には、大日如来が安置されているそうです。
当時、お一人の方が寄進して、建てられたそうです。
阿波六地蔵霊場・地蔵寺。20151124。 2015/11/25
当寺所蔵の「書、画」が公開されていたので、飛んでいきました。
するとたまたま、「シルバー大学」の課外講座の方々と出会い、講師や引率者の先生と知り合いでしたので、部外参加させていただきました。
以下、講座のお話の要点になります。

このお寺は、徳島県小松島市松島町にあります。
徳島市内の武家屋敷、そしてここは豪商の本宅・屋敷が並んでいました。古くから商業の要所として栄え、多くの豪商が寄進しつつ、寺を守ってきました。
今では、流通、交通体系が変わり、流れは、古い街道・老舗が並ぶ商店街から、国道やバイパスに移りました。

現地での歴史のお話は、まるでタイムマシンのように、その頃の風景が、浮かんできます。
奈良、平安、鎌倉、江戸、明治から今まで、多くの人々が行き来して、生活して、日常のドラマがあったことでしょう。境内にある石碑をたどっていけば、当時の様子が見えてきました。
この地域の、すべての中心であったお寺です。
総務文教委員会 管内視察。20151113。 2015/11/15
議会の委員会視察です。「電子黒板・デジタル教科書を活用する効果」について、鳴門西小学校の授業を視察しました。

電子黒板は、大画面にデジタル教科書、デジタル教材、児童生徒のワークシートなどを表示できます。電子ペンや指で画面に文字や図形を書き込み追加説明などを行うことができます。

六年生の社会の時間で、内容は、幕末と明治維新の頃に活躍した人物やその時代の各藩、幕府、諸外国との関係などについてでした。
デジタル教材を使い、ペリーや勝海舟、西郷隆盛、木戸孝允などの顔写真が出たり、また児童が調査研究した当時の長州や薩摩、アメリカとの関係を画面に直接書き込みしつつ説明するなど、具体的に解りやすい授業でした。

従来の黒板には、先生が取りまとめとしての「考える視点」をチョークで書くなどして、電子黒板と併用する効果的な使い分けが示されました。

現在、小学校六年生用と中学校三年生用に整備されていますが、平成28年度には、小学校五年生用、中学校二年生用に新規整備される予定です。

例えるならば、カラオケの変遷にも見られるように、当初は演奏に合わせて、歌い手だけが手元にある歌詞を見ながら歌っていたのが、テレビ画面が登場して、歌詞が演奏に合わせてテロップで流れ、その場に居るみんなが歌を聴きながら、画面の歌詞を目で追いながら「参加」できるようになりました。

同じように、児童一人ひとりが自分の机の上にある個々の教科書を見ながら進めてられていた授業が、先生の言っている「こと」と、前の電子黒板に映し出された教科書の「内容」とが一致しているので、児童全員が電子黒板を見ながら、先生の話を聴きながら、具体的で、解りやすい授業となっていたようでした。

まだまだこれから活用の範囲が広がっていくでしょう。

ただ一点、進むテンポが速く、私たちの頃の授業の「良さ」がなくなりつつあるように感じました。
先生が黒板に向かって書いている後ろ姿、先生の字、それを書き写しつつ学ぶ「静かな時間」、流れる音はチョークと鉛筆の音、そして、次にまた先生のお話、そのように「静と動」が繰り返された授業でした。
電子黒板の授業は、具体的で速攻であります。「動」が続きっぱなしで、息つく暇もなく、教室の外をボォウと眺める間もない、という感じがしました。
公民館祭り。20151031。 2015/11/07
川東公民館祭りです。

ここ川東公民館は、地域の様々な活動の拠点として、サークルとしての太極拳、大正琴、カラオケ、華道・舞踊、そして婦人会、地域の町内会・自治振興会、自主防災会などの団体の会合にと、ほとんど毎日のように利用されています。

今日は、三世代、四世代が集まって、交流会が開かれました。展示は、折り紙など多彩で、喫茶コーナーもあり、大盛況でした。コスモスの花が周囲を彩り、EMの配布もありました。

二階では発表会があり、日ごろの「活動成果」がご披露されました。最終は地元・林崎小学校の金管部の発表です。素晴らしい演奏に、みんながうっとりとして、拍手喝采でありました。

いい祭りです。
伝説の中で。秋田県。20151029。 2015/11/06
田沢湖畔にたたずむ、たつこ像です。ギリシャ神話をイメージするかのような像です。

ここには、たつこ(亀の鶴子)伝説があります。以下、秋田県観光HPからです。 

●【田沢湖が田沢潟と呼ばれていた頃、院内にまれにみる美しい娘、辰子がいた。辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけた。満願の夜に「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがあった。
辰子は、わらびを摘むと言ってひとりで家を出て、院内岳を越え、深い森の道をたどって行くと、苔蒸す岩の間に清い泉があった。喜び、手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けた。
時が過ぎ、気がつくと辰子は大きな龍になっていた。龍になった辰子は、田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいった。
一方、辰子の母は娘の帰りを案じ、田沢潟のほとりに着き、娘が龍になったのを知って悲しみ、松明にした木の尻(薪)を投げ捨てると、それが魚になって泳いでいった。後に国鱒と呼ばれ、田沢湖にしか生息しなかった木の尻鱒という(田澤鳩留尊佛菩薩縁起より)
さて、十和田湖を南祖坊に追われ、男鹿半島に八郎潟をつくり主となった八郎太郎は、毎年秋の彼岸の頃、田沢湖に恋人の辰子を訪ねて冬を過ごすため、主のいない八郎潟は凍りつき、2人の龍神が住む田沢湖は冬の間も凍らない湖として知られている。(三湖物語より)】●

意味深い物語です。

湖には、山々には、木々には、長い長い時間が作り出した数多くの「お話し」があります。

平成の時、2015年の今では「お話し・伝説」となっていますが、それらの伝説が「出来た時、その時」は、その瞬間が「今、現在」でありました。

その時、何があって、このような「お話し」となったのでしょうか。本当に、辰子が存在していて、この伝説の通りに事が運んだのでしょうか。
日本の伝説、世界の伝説、今に、多くの人々の祈りが伝えられています。
歴史の中で。秋田県。20151028。 2015/11/06
移動の途中で、武家屋敷の残っている角館で、昼食と散策をしました。
多くの観光客で賑わっていました。

鳴門や徳島県にない、三千坪の敷地をもつ屋敷、紅葉の素晴らしさ、歴史(時間の経過、人の手間、自然の恩恵)の深みを味わいながら、あぁここに日本人のこころが全て「表れて」いる、と感じました。だから多くの人々が寄ってくるのです。
短時間でしたが、共鳴して、共振して、過ぎ去りました。
研修視察・秋田県。20151027。 2015/11/06
横手市、仙北市、男鹿市に研修視察してきました。
健康行政、地域自治行政などについて。
横手市では「健康の駅」として、大きなショッピングセンターの横に併設したいわゆる「生涯学習センター」に、一日二百円で使用できる最新式の健康器具を置いた「健康の駅」、子どもたちが親子で遊べる子育て支援のフロアー、図書館、などなど。
仙北市では、市長の公約の実行に、市民がどれほど満足くしているかの「市民満足度調査」、地域自治体、特に人口減少による過疎地域の「地域再生」への対策、などなど。
男鹿市では、「出会いサポート」センターの様子、などなど。

健康福祉、人口問題、少子・高齢化、どれ一つをとっても、鳴門市、いや全国の自治体の「共通の課題」として取り上げられています。
すなわち、昭和30、40年代からの日本の「いわゆる高度経済成長」といわれた『姿』と、最近の『姿』との【差異】に、とても問題がある、ということであります。

市民みんなで健康を維持して、医療費の抑制に努めたい、早くに結婚して子どもを二人以上生んでもらい、人口減少を止めたい、これが「行政の主張(市町村長の公約)」の主役となっています。
もう一度あの頃(高度成長期)に戻したい、やり直したい、と言いつつであります。

可能ですか、いや、それが最良の選択肢ですか。
各地の視察をつづけながら、これからの日本の『すがた』を考えてしまいます。

ただ、惜しむらくは、人口過疎になった農業・漁業・山村などの地域で、古来から伝わってきた「伝統」が、担い手がいなくなって、消えつつあることです。
農法、漁法、そして芸能・文化などの「日常生活」の様式が、消えようとしています。

同じように、大型店舗の進出で小売店や商店街が消えつつあり、精密な技法についても機械化が進み、職人技を必要としなくなった分野もあります。

移り変わる歴史の中で、これらの変化は「致し方無い」流れでありましょうが、ただ旧来のシステム(税金を集め、公共のモノに使う)を維持している行政だけは、消えつつあるモノに対して、復旧・復活を標榜して止みません。しかし、どのような事象も「そのままに存在し続ける」などということはありえません。

21世紀になって、15年。「物質文明の時代」から「こころの時代」へと言われて、15年。
いまだに、国も個人も、生き方、生かし方の模索が続いています。
成田山 徳島分院。秋の大祭。20151025。 2015/10/25
今年で、創建99周年だそうであります。ご本尊は、不動明王。

午前10時20分から地元保存会の獅子舞の奉納があり、午前11時00分から護摩供、正午12時00分から餅撒き、多くの方が参集しました。手を合し、数々の祈りを奉げていました。

護摩供の前に、31番・竹林寺のご住職が来られていて、法話がありました。
「75歳で半身不随になった方が、リハビリを兼ねて、一人で自由な右手一つで車を運転して四国遍路に出かけ、今では306回も回っている。その方は、回り初めたころは、札所で『般若心経』を唱えても『なぜに、こんな体になったんだ』との『怒り』ばかりがこみあげてきて、なかなか最後まで唱えられなかったが、今では、こうして生かされていることに感謝しつつ、回らさせています。」
「また、ある方のお話ですが、おばあちゃんから教わったことで、お風呂で熱い湯を手前の方に引き寄せるのではなくて、向こう側に押し出すと、熱い湯はめぐり回って自分の体の方に寄ってくる。同じように、こちらから『ありがとう、ありがとう』を言いなさい、そして多くの『ありがとう』を言われる人生を送りなさい、というお話です」

経済至上、物質至上、財物至上の今日、もっと欲しい、もっともっと豊かになりたいの意思が蔓延する今日、多くの人々が思い感じ始めています。
「それだけが、それを求める日々が人生なのか」と。

初秋の優しい日差しのもと、こうしてお参りしている方々のこころは「感謝」の気持ちで満たされているかのようでした。
成田山 徳島分院。秋の大祭。前日の準備。20151024。 2015/10/25
今年で何年になりますか、先代のご住職とのお付き合いの中で、参加するようになりました。
近在の多くの方が寄り合ってきます。ここ7、8年は地元の「瀬戸中学校」の生徒さんが参加しています。

前日、祭りで投げる餅をつきます。とは言え、餅つき「機械」を使ってです。ついた餅は、境内で天日で乾かします。
以前に、この当日に雨の日があったり、途中から雨が降ってきたりした日もありました。微妙な風が吹く晴天の日が最適です。今日は、天日が最適でした。

この後は、参加の多くの方々が、紅白一個ずつをビニール袋に詰めていきます。

明日は、多くの善男善女が集います。
四国霊場 73番・出釈迦寺。奥の院。20151020。 2015/10/24
この遠望は、捨身ヶ嶽から見渡せる、瀬戸内の海です。

はるかには、山陽地方がかすんで見えているようでした。

ここまでは、急な坂道・参道で、行場に行くまでに、すでにこの道で、「こころ」を試されました。
四国霊場 73番・出釈迦寺。奥ノ院。20151020。 2015/10/24
捨身ヶ嶽です。

今でも、行場として、多くの方々が、訪れています。
登るには、鎖を頼りに、腰を低くして、岩場を這うような姿勢と、無心の心構えが必要です。
軽装の私には、途中までしか、「息」が許してくれませんでした。

以下、ここに残る空海さんの「お話し(伝説)」です。

●【空海伝説】捨身ヶ岳(しゃしんがだけ)禅定
弘法大師空海(幼名真魚)は7歳の時、世を救うという大きな請願をたてました。
そして、讃岐国多度郡(現在の善通寺市)にある五岳(香色山・筆ノ山・我拝師山・仲山・火上山)の中で一番高い我拝師山に登り、三世(前世・現世・来世)の諸仏・十方の菩薩様に念じ
「私は仏法に入って、一切の衆生を済度せんと欲す。私の願いが成就するものならば、お釈迦様よ、姿を現してその証を与え給え。成就せざるものならば一命を捨ててこの身を諸仏に奉げます」
と言って、断崖絶壁の頂より白雲も迷う谷底に身を躍らし飛び降りました。
すると、紫色の雲が湧き起こり、その中に大光明を放って百宝の蓮華に座したお釈迦様が現れ、羽衣を身に纏った天女が降りてきて真魚(弘法大師空海)を抱きとめ
「一生成仏」
とおっしゃいました。
弘法大師空海は、この神秘不可思議なる仏陀の霊光に感謝し、霊験を永久に記念し、世の人々に仏縁を結ばしめんが為に捨身ヶ岳に寺を建立し、ご本尊のお釈迦様を安置しました。
その後、この地は捨身誓願の霊場として多くの善男善女の信仰の中心となったそうじゃ。
<出釈迦寺捨身ヶ岳禅定より>●

このような聖地であります。改めて後日に、心を込めて、出直して参ります。
四国霊場 73番・出釈迦寺。20151020。 2015/10/24
10番・切幡寺から、南に向かわずに、阿讃山脈を越えて、讃岐・香川に向かいました。

ここは、(以下、四国霊場の公式HPから)
●『出釈迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がつきました。
また、弘法大師が身を投じた場所は、ここからさらに100mほど登った場所にあります。下を見れば足のすくむような深い谷底ですが、眼下には讃岐平野や瀬戸内海を一望できる絶景が広がります』●

後ろに見える山が捨身ヶ嶽です。
四国霊場 10番・切幡寺。20151020。 2015/10/24
この遠望が、切幡寺から見た南の方向に広がる吉野川の景色です。

左手が撫養・鳴門市、右手が池田方面です。

快晴無風、初秋の美しい自然の前にして、大きく深呼吸をしました。
四国霊場 10番・切幡寺。20151020。 2015/10/24
四国霊場の1番・霊山寺から、ここ10番・切幡寺までは、阿波・徳島と讃岐・香川の県境に広がる「阿讃山脈」のふもと辺りを西に向う方向に、ほとんど一直線上的に存在しています。

この山脈に並行して、吉野川が流れていて、その北岸を撫養街道が通っています。
起点は鳴門市の撫養で、ここ鳴門市から西部方面の池田に向かって、そして池田で分岐する形で、土佐・高知に通ずる土佐街道となったり、伊予・愛媛に向かう道となります。

(地図で見ると、吉野川は、徳島と和歌山の間にある紀伊水道を挟んだ対岸の紀ノ川と、これまた一直線的に、繋がるような形を作っています。)

切幡寺は、(以下、四国霊場の公式HPから)
●『古く、この山麓に機を織る乙女がいた。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。
大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。』●

(境内には、左手に布を手にした観音菩薩像があります)

ここ切幡寺を終えれば、11番・井戸寺へは、吉野川を渡り、南岸方面向かうような道となります。
四国霊場 20番・焼山寺。阿波の山々。20151019。 2015/10/19
素晴らしい山並みです。

これが、地球の景色です。水の星、生命の星、我らが星、地球の姿です。

日本の阿波・徳島の焼山寺からの視界です。
ここに、人が住んでいます。生活しています。行き来しています。
多くの緑の木々が、生命の営みを優しく包み込んでいます。

先人が、ここに寺を建て、先人が、この寺を崇め敬い守ってきました。

こうして、ここに立てば、今生、今生かされていることに、感謝すること以外、何も出てきません。

四国霊場八十八か所とは、人として生まれてきたことへ感謝する場、であります。

今後、「世界遺産」に登録されようが否が、ここは、永遠に人類の「ふるさと」である、と私は思います。
四国霊場 20番・焼山寺。20151019。 2015/10/19
山門です。

40年前、病状の父と「死出の旅」に出ました。
大病の手術の後、執刀医から「あと三年です」と告げられた時、何も孝行していない自分が「父との今生」は「三年」なんて……、激しい混乱に陥りました。

「ワシには、し残した事が有るんじゃ」「うん?」「八十八か所を回りたいんじゃ」

父、73歳、私は、25歳。手術の後、二人で巡礼の旅に出ました。決死の旅であったし、必死の旅でありました。

当時の遍路道は、バスや自家用車用に、少しは整備が進みつつありましたが、まだまだほとんどが歩き遍路用の道のままでありました。
その中でも、ここ焼山寺は、全札所の中で一番の「難所」でありました。車の路(とは言っても、近在の方々の生活道です)は、細くて急斜面。バスとの対向では、バスの運転手さんが降りてきて、私の車を運転して右下の農家の庭先まで、それもギリギリの幅で、入れてくれて、バスを交わしてから、またバックで山道まで上ってきて、事なきを得ました。

それが、毎年のように整備が進んできたようであります。今日などは、何か所かに「当時の細さ」が残っている程度で、快適な山道ドライブで上がっていけました。

建立当時、どのような方々が、どのようにして、「資材、機材」を運んだのでしょうか。
ここに「寺」を祈願した空海さんの「おもい」が手を広げて、迎えてくれました。

山門です。
四国霊場 20番・焼山寺。衛門三郎杉。20151019。 2015/10/19
彼の形見の遍路の杉の杖を墓標として立てると、その後に大きな杉に成長したのであります。

衛門三郎杉として、焼山寺への山道の途中に大きく立っています。そこには「杉杖庵」があります。
杉の横には大きな銀杏の木が、何かを語りかけるかのように、立っています。

しかしお遍路さんの多くは、横を素通りして行きました。40年前のお遍路を始めた時の私とよく似ています。ただただ次なる札所に一直線に、ということです。
杉も銀杏も、2015年の陽を浴びて、そこに立っています。
四国霊場 20番・焼山寺。衛門三郎杉。20151019。 2015/10/19
伊豫の国 長者の衛門三郎と空海上人の「お話」は、有名です。

一椀の食物を乞う旅の僧の願いを激しく断り、その後、八人の子どもたちが次々に死んでいき、その時の僧にお詫びのざんげに旅に出て、四国を順周りに「20回」、僧に会えないので「21回」度は、逆回りし、ここにて僧「空海上人」にお会いして、心からわびて、一国の国司に生まれ変わりたいと願った衛門三郎の左手に小石を握らせて「必ず国司に生まれよ」と願うと、にこりとほほ笑み亡くなったのであります。
四国霊場 15番・国分寺。20151019。 2015/10/19
741(天平13)年、聖武天皇が勅願して全国に建立された国分寺、ここ阿波の国・徳島、曹洞宗の国分寺です。
立派な造りの本堂です。徳島県の指定文化財・史跡になっています。
五重塔もあったようです。基礎の「大きな石」が鐘楼の横に置かれています。

歩き遍路の方が、山門横で休息していました。快晴で無風、1200年あまりの時を過ごした境内は、いまだ建立落慶の時の人々の歓びが溢れている様で、その歓声を聞いているかの如く、その方は静かに額の汗を拭っていました。時空を超えた風景がありました。
四国霊場 五番・地蔵寺。20151017。 2015/10/19
少しづつ葉が黄色くなってきています。樹齢約800年の銀杏です。
秋のシーズンになり、ここ四国路には、毎日多くのお遍路さんが訪れています。
特に大型バスの団体が増えてきていて、先達さんとと30人、40人の方々です。
全員で読経のあと、それぞれに風景を味わっている様子ですが、ここ地蔵寺ではほとんどの方がこの銀杏に近づき、見上げて、そして太い幹に耳を当てて「何か」を聞き取っているのか、祈っているのか、しています。
88番さんの大窪寺まで、まだまだこれからの旅路であります。
四国八十八箇所霊場と遍路道を「世界遺産」に。20151015。 2015/10/15
四国八十八箇所霊場と遍路道を「世界遺産」に、祈念します。

四国霊場・21番札所 太龍寺へのロープウェイ駅の駐車場、出入り口に何本もののぼりが立っていました。

是非とも、貴重なみんなの共有財産として、守っていきましょう。

ここ何か月か、「世界遺産」へ、との祈念を胸に、一番さんから「順送り」ではなくて、行きつ戻りつの「車・遍路」をしています。

(今までにも、巡礼した所をご報告をしていますが、これからも随時ですが、巡礼した所をこの活動日誌に報告していきます。)
四国八十八箇所霊場。20151015。 2015/10/15
1200年前、弘法大師 空海さんの残した霊場。私たち・人類の「心の拠り所」となっています。

多くの方々が巡礼しています。
徒歩だったり、自家用車だったり、団体のバスだったり。
一人だったり、家族であったり、何かの団体であったり、また、たまたま乗り合わせた「参拝ツアー」だったり。

これからのこと、これまでのこと、あれも、これも……、もう一度 静かに見つめ直したい。

何のために生まれてきたのか、今まで何をしてきたのか、何をしたかったのか、何をし残してきたのか、何をしていきたいのか、そして、死んだら、どうなるのか……。

家族が健康であってほしい、あの人の健康を取り戻してほしい、そしてまた、みんなが平和に平穏に過ごせますように……。

老いも若きも、白装束の方も、普段着てきな方も、深い「祈り」を奉げる姿があります。
次から次とお参りしていました。

ここは、人類の宝であります。

蛭子神社・徳島県鷲敷。20151015。 2015/10/15
四国霊場・21番札所 太龍寺への登り方法には、徒歩かロープウェイの利用かですが、ロープウェイの登り口に向かう途中、すぐ手前に那賀川にかかる「赤い欄干の橋」があります。
その橋の手前横に、この蛭子神社があります。

樹齢が何百年でしょうか、大きな大きな杉の「門」、境内には大きな銀杏の木、立派な神社であります。
その昔、ここで、父・要太郎は、よく遊んだことでしょう。以前にも父と共に、家族と共に、よく寄せてもらったところです。
宮司さんの奥様と母(二人ともに亡くなりましたが)が「書道の友」ありましたので、家族以上の親しみあるお付き合いを続けています。

境内にたたずめば、ホッとします。見上げれば、銀杏がほんの少し色づき始めています。
ここの黄色の落ち葉は、境内一面に広がり、写真愛好家の絶好の景色となります。
もうすぐです。
鷲敷の蛭子神社の秋祭り。20151015。 2015/10/15
我が家の故郷・徳島県鷲敷町に行ってきました。

親しくしている蛭子神社にお参りしました。

ここの秋祭りは、毎年日は決まっていて、10月9日、10日だそうです。
今日(15日)、訪ねて行ったら、今年はすでに終わっていました。残念でした。

9日は、いわゆる宵宮で、境内の舞台小屋の舞台(写真の右手)で氏子の方々のアトラクションがあるそうです。踊り、カラオケなど、子どもから大人まで、楽しくてにぎやかだそうです。観客は境内の敷地(写真の手前の広場)に座っての見物です。高齢者対策に、椅子を多く構えているそうです。

10日は、式典があり、その後は神輿が町内を巡行するとのこと、来年は、必ず来ますと約束してきました。