「議長」辞任。20111222。 2012/03/11
一年間勤めました「議長職」を、「申し合わせ期間」が終了しましたので、辞任しました。

この一年間は、内外共に、多くの難問題が噴出し、また、多くの新たな進展がありました。

1月 中国、湖南省の張家界市と鳴門市との「経済ミッション」

3月11日 東日本大震災の発生 大津波と原発破壊の大被害

4月 議会事務局職員の異動騒動

学校給食会の「使い込み詐欺」事件、中国、湖南省の張家界市と鳴門市との「友好調印」、議会基本条例の「再議・廃案」などなど、です。

行政組織って、何? 何のために存在しているの? いろいろな事例・ケースを通して、市役所と市議会の存在意義・必要性を再認識した、一年でした。

ありがとうございました。
中国、湖南省の張家界市の自然。20111025。 2012/03/11
ほんの数十年前まで、この景色は、広くは、知られていませんでした。

険しい山岳地帯です。人的にも、物的にも、他国・他地域との交流は、あまり進んでいなかったのでしょう。

映画「アバター」の基本デザインに、この絶壁に近い山々の風景が取り入れられてから、世界的に、一気に知れ渡っていきました。

再三、行ってみたいですね。
中国・張家界市との「友好提携」の調印式。20111025。 2012/03/11
中国、湖南省の張家界市と鳴門市との「友好提携」の調印式に出席しました。

この1月には、経済ミッションとして、鳴門市の経済関係者の方々と共に、張家界市を訪れて、経済や観光、医療などの「交流」について、前段階の会談をしました。

そして、今日、正式に「友好」の印として、調印式となりました。

今後の、大いなる交流を期待しています。
弁財天市杵島姫神社の秋例大祭。20111009。 2012/03/11
秋晴れのもと、今年も多くの人が繰り出して、秋例大祭が盛大に行われました。

平成3年の、この例大祭の日から始まった境内での「出店」は、今年も好評で、多くの親子連れ、祖父ちゃん・祖母ちゃんたちが、集まってきて、大繁盛でした。

地域の「絆」を確信できる、最たる年行事です。
精華幼稚園・林崎小学校、秋季大運動会。20110923。 2011/09/23
多大なる被害をもたらせた台風15号のあと、晴天の秋空の下、運動会が開催されました。

妙見山の旧・鳥居記念館を見上げつつ、徒競走や綱引き、玉入れなど、園児・児童、そしてPTA保護者が、歓声の中、真剣に楽しく競技をしました。

特に、6年生と保護者のフォークダンスは、見ていて楽しくなりました。小学校最後の運動会で、みんなで和気アイアイと、踊っていました。

私たちの当時のような「騎馬戦」や「棒倒し」「組立て体操」などの大掛かりな演技は、すっかりと無くなりました。
また、徒競走で、1等、2等などへの賞品もありません。

この点、いろいろな意見のあるところです。

児童数は、420名と、少子化の様子が見えてきています。
私がPTA現役、平成10年前の頃には、800名余りでしたから、当時から半分近くに減少しています。

6年生と、PTA役員の方々の動きを見ていますと、キビキビとして役目を務めていました。
地域の結束力(教育力)が十分に発揮され、地域の安定感を実感する運動会でした。
三世代ふれあいフェスティバル。20110917。. 2011/09/23
今年も、林崎小学校の講堂で、地域の交流として、『三世代ふれあいフェスティバル』を開催しました。

学校週5日制度が開始した平成4年から始めて、今年で第20回の記念の開催となりました。(私が、41歳の時からです。)

当初は、PTAのOBの皆さん方が中心となって、毎週土曜日の午前・午後に、小学校の空き教室や中庭で、いろいろな企画のもとに、ガヤガヤとやっていました。

今では、老人会・民生委員会・婦人会・保護者などが集まってきて、昔の遊びを中心にして、コミュニケーションをはかっています。
剣玉、こま回し、おはじき、ミニボーリング、輪投げなど。

毎回、250人余りの皆さんが集まっています。

最近の子どもたちは……、と言います。
しかしながら、単純ですが、手先を使い、集中力を必要とする遊びに熱中して、すぐに『コツ』をつかんで、上手くなります。

そして、明るく、元気に走り回っていました。
牟岐の避難路 B。20110910。 2011/09/23
高台のお寺からの、町と漁港の様子です。

境内には、人々の安全を祈るお地蔵さんが立っていました。
牟岐の避難路 A。20110910。 2011/09/23
避難用の案内板が、街角の所々に、表示されています。

当地の方はもちろんのこと、その時にその場に居る町外の人も、その標識を頼りに、誘導されて、高台に避難できるようになっています。
牟岐の避難路 @。20110910。 2011/09/23
徳島県の南側、牟岐町に行ってきました。

津波への避難対策の様子を見てきました。

牟岐は、漁業の町です。町並みは、湾に沿って広がっています。津波がやって来たら、一瞬に町を覆ってしまうような地形です。

高台に、お寺がありました。かなりの高さですので、そこに避難すれば、心配ないでしょう。

そこに上がるのに、車椅子の方でも上れるようなスロープがあります。
鳴門市防災訓練。20110901。 2011/09/23
鳴門市の立岩・県立運動公園で、防災訓練がありました。

今年は、3月11日の東日本大震災の教訓のもと、特に地震と津波への「避難訓練」を行いました。

各地域から多くの方が、集団で、避難場所である「運動公園」に、歩いてきました。

会場では、消防団、自主防災会などがそれぞれの訓練を行いました。
自動車や倒壊した家屋に閉じ込められた被災者を救出したり、退避用のテントを建てたりしました。

現実には、道路が隆起・陥没していたり、火災の発生があったり、また主な「橋」が倒壊していて、訓練のような『スムース』な行動は、なかなか出来ないでしょうが、やはり、常日頃からの『備えの気構え』のためにも、こうした訓練は必要であります。

近からず発生が予想されている東南海・南海地震での被害を最小限にするような、準備が急がれます。
第19回 鳴門市姉妹都市親善使節団 そのE。20110822。  2011/09/03
(写真は、ホテルの前にある、楽しそうに噴水に舞う子どもたちのブロンズ像です)

8月22日(月)
いよいよ、出発です。リューネブルク市を去ります。

午前2時30分、モーニングコールが入りました。
ここで、私は、使節団の方と別れて、午前8時に、このホテルを出て、一足先に日本に帰りますが、使節団の方は、その前に、午前4時に、次の訪問地であるハンブルグに向けて、出発するのです。
昨夜は、夕食会の後、午後10時ころに、ホテルの部屋に入り、その後、荷物の整理などで、ほとんどの方は一睡もしないで、モーニングコールを受けたのではないでしょうか。

ホテルのロビーに集合して、最終確認をして、バスに乗りました。
大きく手を振って、皆さんを見送りました。

それから、部屋に帰り、荷物をまとめて、午前8時に市の専用車でハンブルグ空港まで送っていただき、午前11時15分、ハンブルグ発 LH013にて、フランクフルトへ向かいました。

フランクフルトからは、午後1時55分発 関西空港行き LH740に乗りました。
乗り込んで、席に座って、出発を待っていますと、アナウンスがありました。

「ただいま、乗務員が交代していますので、しばらくお待ちください」

それから、機内では、乗客の方は、何の不満も漏らさず、整然として、待機したままでした。
そして、飛び立ったのは、2時間後、でした。

それから約11時間のフライトで、関西空港には、予定では、8月23日、午前8時に着いて、2時間余りの余裕で、ゆっくりと手続きをして、午前10時25分発、徳島行きの高速バスに乗る予定でした。

その予定が、フランクフルトの出発が2時間、遅れたので、関西空港に着いたのが午前10時前でした。
こりゃあ、午前10時25分発のバスには、とても間に合わないぞ、と思いつつ、手続きをしていると、何とまぁ、スイスイとゲートを通過できて、結果、午前10時22分に、バスに飛び乗ることができました。

帰りの飛行機の中も、高速バスの中も、首や肩や足腰が痛くなるほど、ずうぅっと「寝て」いました。

時差の感覚があったのか、どうか、寝ていたので分かりませんが、帰ったその日から、また、日本・鳴門市の日常の中で、いつものように動き回っていました。

確か、ほんの少し前、ドイツのリューネブルク市に滞在していて、ドイツ語が飛び交う中で、友好を深め、美味しいビールやワイン、ジャガイモをいただきながら、歓談していたのに……。

何百年も隔てた「浦島太郎」になることなく、ドラえもんの『どこでもドア』のような、航空機の発達のお蔭で、地球は狭く、身近になりました。

あの日、『板東俘虜収容所』に居た彼らは、

  「どこにいようが、そこがドイツだ」

といいながら、確かに、そこでの人生の日々を送ったのです。

かけがえのない「自分の人生」を、国家の戦争の日々に差し出して、捕虜となって日本にやってきて、そこで尊い日々を送ったのです。

「博愛」と「交流」の日々を過ごしたのです。

結果、姉妹都市友好の親善使節団が、長年にわたり、行き来して、日独の理解を広げています。

この精神を、鳴門から発して、全世界各国の友好の輪となり、広がっていくことを願います。

使節団に参加させていただき、ありがとうございました。
過去の先達の方々に感謝し、今回の参加の方々に感謝申し上げます。

ありがとうございました。
第19回 鳴門市姉妹都市親善使節団 そのD。20110821。  2011/09/03
(写真は、市庁舎です。)

8月21日(日)
今日は、一日中、日独協会のドイツの方の家庭に、少人数に分かれて、訪問する日です。
より具体的に、より親密になれる日です。

私は、ロアダンツ夫妻の家庭を訪問しました。

その前に、頑丈な自家用車「ボルボ」で、一時間弱ほど、ガンガン飛ばして、ある(名前を記録していません)鉄道の駅に行きました。

日本の駅と違い、案内のアナウンスもなく、駅員の姿もなく、過度で派手な案内板もなく、すうぅっと列車が入ってきて、人々が乗り降りして、さあぁっと列車が出て行きました。
また、列車が、時間通りの来たり着いたりなどは、二の次、問題外で、自分の目的地に、「とにかく着いたら、オッケー」とのことでした。

次に、ドイツの、古くからの農家の「古民家」を集めた、広々とした「公園」に行きました。(日本にもある、飛騨の山里のような、歴史公園です)
ロアダンツ夫妻のお仕事は食品化学者で、この場所がお気に入りらしくて、32箇所の民家や場所、全てにわたり、丁寧に案内していただきました。

途中、昼食は、羊の料理で有名なレストランで、おいしくいただきました。(そのボリュームたるや、おぉお、です)

その後、ロアダンツ夫妻のお家を訪問して、美味しいコーヒーと自家製のケーキをいただきながら、2010年に使節団で来日したときの鳴門や京都、広島などの、写真を見ながら、歓談して帰りました。

夕食は、日独協会主催の夕食会で、テーブルの方々と、お互いにプレゼント交換をしたり、歓談したり、そして、それぞれの合唱団が美声を披露しました。
ドイツの方のメイン曲は、「炭坑節」でした。素晴らしい歌声で、全員が拍手喝さいとなりました。
最後には、いつもの「阿波踊り」で盛り上がって、終わりました。
第19回 鳴門市姉妹都市親善使節団 そのC。20110820。 2011/09/03
(写真は、メルン市内にある教会と、広場です)

8月20日(土)
午前9時、大型バスにて、日独協会のドイツの方々と一緒に、メルンとシャーネベックに、視察・観光に出かけました。

室内で、沢山の蝶々が飛び交う「チョウチョの庭」を見学しました。
昼食の後、観光船「ティル」号で、3つの湖を周航しました。

メルン市内を徒歩で観光して、リューネブルク二連式エレベーター「船の昇降機」を見学しました。
そこは、河と運河が直角に交わった場所で、昇降機を使い、大きな船を移し変える所です。とてつもない事を考え、とてつもない施設を作り上げたものです。(この場所は、百聞は一見に如かず、です)

メルンの、小高い丘にある教会を中心とした街の風情は、京都や奈良の「観光と日常の密集した風景」と、同じ感じがしました。

世界のどこでも、「祈り」の場所が、人々の生活の中心であります。
第19回 鳴門市姉妹都市親善使節団 そのB。20110819。 2011/09/03
(写真は、当時の市議会場です。バックにあるステンドグラス、9人の見届け人が居ます)

8月19日(金)
午前9時にホテルのロビーに集合して、徒歩で、リューネブルク市役所に出かけました。メドケ市長に表敬訪問です。
午前9時30分から、市長から、歓迎のご挨拶をいただき、その後、市役所内、市内、旧市内の見学しました。
午後7時から、市役所内の「表敬の間」で、夕食会がありました。

現在の市役所は、当時からの建物と、その後に増設した物とが、混在しています。
しかし、その増設にも、ちゃんとした「ポリシー(考え方)」があって、それが、町全体の「まちづくり」にも普及しています。
すなわち、富の分配と、日常の生活と、次世代への引継ぎ、です。

『塩』で儲けた階級が、政治(まちづくり)を行なってきましたが、結果、現在の日常の町並みを見渡せば、歴史と伝統が残った現在となっています。

現在という日々は、決して突然に現れた日々ではなく、過去からの連続であります。
家庭でも、地域でも、そして、国家でも。
過去の悪しき事柄は、正しく清算して、良き事柄を引き継ぎ、日々を過ごし、子どもたちに伝えていくこと、日本でも、ドイツでも、どこの国でも、この真実は変わらないでしょう。

市議会場の9人の見届け人が、今も、毅然として、街の様子、人々の生き様を見届けているようでした。
第19回 鳴門市姉妹都市親善使節団 そのA。20110818。  2011/08/25
(写真は、ホテルの外観です)

宿泊のホテルは、「ベルクシュトレーム リューネブルク」といって、市庁舎から10分ほどの所にあります。
横に、水量豊かで、澄み切った河があり、周りはレンガ造りの建物ばかりです。

ホテルに着いたのは、現地時間の「2011年8月18日、午後7時半過ぎ」でしたか、約一日かけて、到着した模様です。
(この頃には、すっかりと時差の関係で、感覚が迷っていました)。

午後8時30分に、このホテルで夕食となりました。ボリュームたっぷりのビッフェ形式の食堂です。
(以後、この形式で、ドイツ料理を堪能?することになりました)。

長旅にも疲れを見せず、皆さん、楽しく食事して、明日からの『公式行事』に向けて、早々に休みました。
第19回 鳴門市姉妹都市親善使節団 その@。20110818。 2011/08/25
(写真は、市庁舎です)

平成23年8月18日から23日まで、『第19回鳴門市姉妹都市親善使節団』として、ドイツ・リユーネブルク市を訪問しました。

1974(昭和49)年、鳴門市とドイツ・リユーネブルク市との間で、姉妹都市盟約が結ばれました。

「板東俘虜収容所」(第一次世界大戦のときに、鳴門市大麻でドイツ兵約1,000人を収容した施設)が、そのきっかけです。

両市の産業基盤が『塩』作りであったことも、きっかけであります。

以後、「親善使節団」が行き来するようになり、現在に至っています。

異国の地で、俘虜としての生活を余儀なくされたドイツ兵の『心情』を察すれば、収容所での生活を支えた板東の人々との『交流』は、まさしく「地獄で仏」の気持ちであったでありましょう。

人殺しの戦争の記憶を引きずりながら、文化の交流こそが、いかに平和の象徴であるかを、心底を味わった日々であったでしょう。

先人たちが体験した『戦争への無念さと、交流の暖かさ』を、ひしひしと感じる使節団交流でありました。

今、北アフリカの国では、政府・反政府の間で、武力闘争が続いており、多くの若者が死んでいっている「ニュース」が流れました。

鳴門市とドイツ・リユーネブルク市との間の、このような『交流』を、世界に発信して、世界平和を訴えていきたいです。

両市にとって、とても有意義な数日間でした。

団員の皆様、ドイツの皆様、ありがとうございました。
阿波踊り。20110515。 2011/08/15
鳴門市の「阿波踊り」は、8月9日から11日までの3日間、徳島市の「阿波踊り」は、12日から15日までの4日間です。

今年は、天候に恵まれて、例年のように、大勢の人たちが繰り出し、楽しく踊っています。

阿波踊りは、終戦の翌年から、早くも復活しました。
各町内で、思い思いの服装で、踊りました。

その後も、死者への鎮魂と、平和を希求する『盆踊り』として、広がってきました。

東北地方では、『青森ねぶた祭り』、『秋田竿灯まつり』、『盛岡さんさ踊り』、『山形花笠まつり』、『仙台七夕まつり』、『福島わらじまつり』、『郡山うねめまつり』、『石巻川開き祭り』、『新庄まつり』、『一関夏まつり』、『大曲の花火』、『八戸三社大祭』、『七夕絵どうろうまつり』などなど。

古く先代の方々が「何かの教え、願い、導き」を込めて、祭りを始め、そして、代々と伝えてきました。

世の中の安穏、農作物・海産物の豊穣や大漁、仲間や家族の安全を祈願して、その喜びの発露として、祭りは、人々の生活と共にありました。

こうして、阿波踊りが踊れて、東北の夏祭りが開催されて、嬉しい限りです。

がんばろう、日本、がんばれ、東北。
66回目の終戦記念日。20110515。 2011/08/15
今日、15日は「終戦記念日」です。
東京の日本武道館では、全国戦没者追悼式が開催されます。

遺族の方々の「高齢化」が進み、また、時の流れの中で、戦争体験を語り継ぐ人々が減少しています。

毎年のように、この時期には、テレビや映画などで、当時の様子が、ドラマやドキュメンタリーとして放映されます。

しかし、66年以上も時間が経過しますと、映し出される悲惨な戦場が、ずうっと過去のような、まさしく物語やドラマのようなものであり、自分は「観客」として「観て」います。

風化が進んでいます。

一方では、二度と繰り返してはならない戦争ですが、いまだに、世界中いたるところで、紛争が続き、人が死んでいきます。

「怨みに対して、怨みで応えていけども、何も解決しない。
怨みには、忍を行っていくことで、怨みを解決できる」

平和とは、「自我」を押し控え、「思いやり」を表し、実践することである、といわれています。

亡くなった方々のご冥福を祈り、世の平和を願います。
北海道・函館。20110809。 2011/08/12
8月8日、9日と、北海道・函館市にて、高速道路の整備を促進する全国の315の市議会の会議(役員会)がありました。

会議は、役員会であったり、総会であったりしますが、全国のブロックにまたがって、順番に開催され、今回は、北海道ブロックが担当になり、函館で開催されました。

会議が終わり、空港への待ち時間に、参加者一行で、函館・五稜郭と平成22年(2010)7月に、140年ぶりに、復元された「箱館奉行所」を見学しました。

この奉行所は箱館開港による、諸外国との応接、蝦夷地の防備、蝦夷地開拓の役割を担う目的で置かれた江戸幕府の役所幕末・明治の動乱のころ、この五稜郭の地は、箱館戦争の舞台になりました。
旧幕府軍の敗退が決定的になり、五稜郭が明け渡されて箱館戦争が終結し、その後、明治4年(1871)に、この奉行所は解体されました。
昭和60年(1985)から、発掘調査を始め、詳細な調査を基にして、復元、再現されたのです。(見学ガイドより)。

すばらしい建物であります。材料も細工も、現在で叶う最高のものです。
聞けば、ここの年間収入は2億円です。夏場を中心に、北海道観光の目玉として、多くの観光客が集まっていました。

政府軍・旧幕府軍の多くの血が流れた地に、平和な夏の日差しが、厳しく降り注いでいました。

時の流れは速くとも、今の私たちは、当時の人々の「志」を忘れ去ることなく、引継ぎ、次代に伝えていかねばなりません。

この建物が「単なる復刻」ではなく、「志」の象徴として、存続することを願いつつ、所内を見てまわりました。
北九州・小倉。20110721。 2011/07/23
7月21日、22日と、北九州市・小倉に、公務で出張していました。

会議までの二時間ほどの間に、小倉城と、その隣にある松本清張記念館に立ち寄りました。

小倉城は、1602年関が原合戦の功労で入国した細川忠興によって、築城されました。
朝鮮や南アジアとの交流・交易の中で、大きく発展した町です。

戦後は、経済成長と共に、排水・煤煙などの公害に悩まされながら、それを見事に克服し、今は、環境都市として、世界から注目を集めています。

松本清張記念館では、全作品の展示や、復元された書斎の様子を見ました。
推理小説の分野に、社会に『渦巻く情念』を取り入れ、ゼロの焦点、点と線、そして、砂の器など、多くの作品を残しました。

私は、20代から30代にかけて、彼の作品を読み漁りました。
特に、「日本の黒い霧」は、圧巻でした。また、2.26事件についての考察は飛び切りでした。

館内をめぐりながら、昭和史の流れ、その時々に生きた人々の「辛さ・息苦しさ」を感じました。
戦前・戦中・戦後の社会の『混乱に翻弄された人々』の様子を、するどく描写した彼の作品は、今、若い人にこそ、じっくりと読んで欲しいです。
台風6号の軌跡・軌跡。20110723。 2011/07/23
『超大型』『雨量は、1,000ミリ』との予想の中で、戦々恐々として、待機していましたが、進路は予想通りに、徳島に上陸するかしないかで、東の方向に直角に曲がっていきました。

進路としても、規模にしても、第「三」室戸台風の様相を見せていただけに、外れてくれて「ホッと」しました。

地震といい、台風といい、そして津波といい、地球の『息づかい』でありましょうが、私たち人間とっては、『自然の猛威』と感じます。

食料をすべて依存している、この母なる地球に住む私たちは、地球に生かされている、との感謝なくして、住み続けることはできません。

多くの人々の「生と死」「出会いと別れ」を繰り返す人生(人類の歴史)の途上において、今、2011年7月、今年の夏が本格的に始まりました。

暑中お見舞い申し上げます。
震災から、四ヶ月。20110711。 2011/07/11
(写真は、夏の富士山です。)

今日、7月11日は、3.11 東日本大震災から、四ヶ月目です。

テレビニュースでも、新聞でも、話題は「民主党、管首相の軽さ」ばかりです。

被災地の復興事業、原発対策、エネルギー対策、そして経済対策、などなど、早急に「結果」を求められる施策が、集中していますが、それらが、「遅々として進まず」、「停滞していて」、与党・民主党の中でも、「内閣に全く協力しない」連中が増殖し続けていて、その中で、管首相は「権力の座の亡者」として、「なかなか辞めない、したたかな」存在である、とのことだけが、マスコミから、連日、発信されています。

妙な様相です。国会は。

『震災に遭って、避難所生活を送っていても』、中央の政府は、テキパキとした対応策を『実行しない』、との様子だけが、マスコミから、報道されています。

これらの様子から、もし、自分のところに『事が起こっても』、国なんてものは、何もしてくれない、との印象が広がっています。

そんなことで、いいのでしょうか。

国会よ、現場(地方の惨状を)しっかり見て欲しい。現地に立ってから、発言して、動いて欲しい。

昨日までの被害者数、死者 15,547人、行方不明者 5,344。

この方々や、遺族の方々に、申し訳ないです。

あれから、四ヶ月も経過しているのに、いまだに多くの方が、避難所生活を送っているなんて…、私たちの身に置き換えたら、『国って、何なんでしょうか』という気持ちになります。

迷走・日本ではなくて、がんばる・日本へ。
全国競艇主催地議会協議会。20110629。 2011/07/11
山口県・周南市で、全国競艇主催地議会協議会の総会がありました。

過去の一時は、全体で「2兆円の売り上げ」があった競艇も、最近では、「8千億円台の売り上げ」まで、低下しています。

全国の、どこの競艇場でも、売り上げ向上策に、四苦八苦しながら、経営・運営を続けています。

多くの意見交換をしてまいりました。
全国市議会議長会総会。20110615。 2011/07/11
第2定例会の開会中ですが、東京・日比谷公園の日比谷公会堂で、全国の市議会の議長が参集して、「定期総会」がありました。

全国の地方自治体で抱えている「課題」と、国への「意見・要望」は、ほとんど共通しています。

経済が安定していて、安心で、安全な地域であって欲しい、これだけであります。

雇用があり、物流があり、人の交流があり、(交通・火災)事故のない、犯罪のない地域、そして、災害時には「被害の少ない街づくり」、災害が発生すれば、速やかな対応のある「連帯・連携づくり」……。

地方主権とか、また、地方分権とか言われながら、地方自治体は、その地域の「細やかな行政施策」を進めていくため、努力・苦労をしています。

一方、このたびの東日本大震災への『国・政府・各省庁』の遅々とした、また、的を得ていない対応ぶりを見ていますと、『地域の実態を知らない方々が、いかに多いか』が、判明してまいります。

このような現況の中で、地方自治をどのように確立していくのか…。

そのようなことを議論してまいりました。
鳴門市戦没者追悼式。20110510。 2011/05/12
鳴門市主催の「戦没者追悼式」が、鳴門市文化会館に於いて、多数の来賓と遺族、関係者が参加して、厳かにして、盛大に開催されました。

鳴門市の方で、戦禍に倒れた方を追悼して、その霊を安んじ、以て、現在の平和に感謝し、未来につなげていくことを誓う式であります。

先の大戦で戦死された方々のご遺族は、多くの方がご存命であります。ご遺族には、まだまだ戦争の「痛み」が癒えていないのではないでしょうか。

現在の平和を享受して、日々に安心していられるのも、あのような悲惨な戦争に対する反省に立ってこそ、であります。

若くして、自己の将来を絶たれた、数多くの英霊に対し、謹んで、感謝しなければなりません。

平和を守ることを誓い、日々の普通の日常をおくれることに、改めてありがたく思いました。
イザナギ神宮の御神木。20110503。 2011/05/04
樹齢約900年の巨木です。

元々、二株の「楠」だったのが、根元の辺りで一株に合体しています。

上には、二株で大きく伸びています。

「連理(れんり)の楠」といって、県指定の天然記念物だそうです。
イザナギ神宮の陽の道。20110503。 2011/05/04
淡路のイザナギ神宮の中に「陽の道しるべ」がありました。

この石碑の案内板は、この神宮から、東・西・南・北の、それぞれの方向に、有名な神社があること、また、夏至や冬至の時の方向にも、それぞれに、有名な神社があることを、案内しています。

諏訪神社、伊勢の熊野神社、九州の高千穂神社などです。

古代の人は、何を以て、そのような遠くの方向が判ったのでしょうか。

また、何の意味を以て、そのような方向に、大きな神社を作ったのでしょうか。

古代のロマンです。
貴船神社。20110503。 2011/05/04
京都の北北東方向に、夏の避暑地で有名な「貴船」があります。

それと同じ字の、淡路にある神社です。

境内の「縁起」を読みますと、京都の貴船神社に縁があるとのことです。

この地に雨を降らせたり、雨を止めたりするための、守り神だそうです。
黄砂の夕暮れ。20110502。 2011/05/04
ここ数日、空全体が薄白く、かすんでいます。

夕陽も、このように、白くなって、降りていきました。
讃岐富士、遠望。20110427。 2011/05/04
春霞のかかった、讃岐富士の様子です。

讃岐平野のどこから見ても、見事に「富士山の形」をした山です。

車で走っていて、右に見えたり、左に見えたりします。